009 - 連想
進展性。孤独の中にある寂しさ、デジャヴにある連続性、言葉の中にある成分を抽出して、再展開する意味。個性とは、既成から生まれる偏りである。オリジナリティなど存在しない。夕焼けはなぜ朱いのか。断片的なイメージをひたすらに並べ続け、生まれる景色は綺麗だろうか。アートとは、個人的な思索から生まれていいのだろうか。であれば最終的に映すのは、その人の先天的な才能ではないか。努力はどこから努力と呼ぶだろうか。意識していない努力は努力と呼んでいいのだろうか。であれば生きているだけで努力していると言えるのではないか。
人間に自由意志などないと言われ始めて久しい。実際俺は量子力学のように、連続した賽を振るように生活している気がする。それはつまり、与えられた才能を武器として宛てもなく振り回し、ただ何かしらに当たることを期待することを『生きる』というのではないか。
結局は運命など既に決まっていて、それをなぞっている。未来が規定ならば今は過去の追想である。これは俺が中学生の時にたどり着いた答えである。厨二病を患ったまま、今を必死にもがいて生きている。そんな言葉は客観的に制定されたもので、全ては幻想である。相対的に他者を落とすことで人は安心する。世間では冷笑するのが流行っているらしい。この世のほとんどの言葉は相対的であり、比べることが人間の生き甲斐なのかもしれない。
マウントを取るためなら人はいくらでも金を使う。家、時計、車、あらゆるものにマウントする要素が詰まっている。マウントに人生を賭けている。それを諦めた人間は病む。劣等コンプレックスを抱く。いずれ幸せな人間を軽薄だと思うようになる。いかに「自分が不幸か」にこだわるようになる。俺はどちらも経験しておくべきだと思う。
マウントを取ることに成功したことしかない人間は、いずれ自分を過大評価する。逆にマウントを取ることに失敗した人間は、自分を過小評価する。どちらに転んでも行き過ぎる。であれば両方経験してその間を取る方が、より客観的な自分を知ることができる。